2006年9月14日(4日目) トルファン近郊・夜行寝台列車

 

 今朝の朝食も昨夜の食堂。バイキング形式だが入口から列。おかずが無くなっても出てこない。又、中国人のマナーが悪い。ようやく席を確保しても、食べ物が無ければどうしようもない。時間がなくなり、朝食はあきらめ。定刻8時半を少し過ぎて方出発。まずは西遊記でも有名な火焔山へ。火の山、すなわち火焔山は炎熱の地トルファンの代名詞といわれるほど有名である。トルファン盆地の北端に長さほぼ100kmにわたって屏風のように連なる山脈が火焔山である。赤土の地に赤い夕日が映えると、燃えあがっている炎のようにも見える。わざわざ下車したが、車窓から良く見えている。10時まで15分間下車見学。

    
火焔山


 続いて「ベゼクリク千仏洞」。火焔山の谷間にあるベゼクリク千仏洞は5〜6世紀の高昌国の時代に開かれ、イスラム教がトルファンに入る13世紀末まで、700年あまり栄えた。 石窟内には美しい仏教壁画があったが、イスラム教徒や西洋の探検隊に剥がし取られ、現在ではわずかしか残っていない。この下には川が流れている。10時から10時40分まで。

    
ベゼクリク千仏洞

 

 次は、「アスターナ古墳群」。昨日見学した新疆ウイグル自治区博物館で見たミイラの一部が発掘されたところ。火焔山の南麓にあり、高昌故城の北方約1km、500基近くの墳墓が並んでいる。アスターナ古墳群は高昌故城に住んでいた、麹氏高昌・唐代の貴族の墓地である。柵には囲まれているが、地表は何もない。横穴から地下にある。11時から11時30分。それにしても暑い。この地方でミイラがあることが不思議でなく、実感できる。皮膚が乾燥し、油気がなくなる。こまめに水分補給してもかさかさ。脱水症状に注意が必要。

    
アスターナ古墳群

 

  トルファン市街から東に45km、火焔山南麓にある「高昌故城」は、5世紀から7世紀にかけて漢人による独立の仏教王国を建てた高昌国の都城で、東西1,600m、南北1,500m、周囲5km余の方形の外城は、高さ11.5mに及ぶ城壁もよく保存され、シルクロードに残る最大規模の遺跡として知られる。高昌故城は、王城・内城・外城と3部分に分かれ、王城が外城の最北部に位置し、内城が外城の中心部にある。建物は日乾煉瓦(ひぼしれんが)によって築かれ、アーチ型の出入口が多い。ただ、時代と共にだいぶ崩れている。漢代には高昌壁が築かれたという記録がある。5世紀、蘭州出身の漢人、麹氏(きくし)一族によって麹氏高昌国(きくし・こうしょうこく)が成立し、以後640年に唐の太宗(たいそう)によって滅ぼされるまで、約140年間存続した。9世紀末、唐が全面的に撤退した後、10世紀にはウイグル人の「高昌大王府」が置かれた。高昌故城はその後300年間ウイグル人の拠点として栄えたが、13世紀にチンギス・ハンの遠征軍に襲撃され、廃墟となってしまった。
入口から内城近くまでロバ車で往復する。日本人を見ると、御者がロバに向かい「ガンバレ。ガンバレ!!」と言って笑いを誘っている。11時40分から13時まで。

    
がんばれがんばれ            高昌故城              高昌故城

 

 今日も遅めの昼食。13時40分から。郷土料理となっているが、何処に言ってもあまり変わらない。味は悪くないし、食べられないものは無い。ご飯は日本の物がうまい。いつも残ってしまう。今日は、日本のウドンに似たものが出て大好評。なくなるとお変わりが出て、各テーブル、何杯も食べていた。14時30分まで。

    
昼食-郷土料理

 

 次は「カレーズ」。カレーズとはペルシャ語で『地下水』を意味する。吐魯番(トルファン)の生命線。天山山脈からの水を引く地下水路。吐魯番・哈蜜(ハミ)・阿克蘇(アクス)3地区に多いが特に吐魯番盆地が最も多い。盆地の傾斜を利用し、高い所に井戸を掘り、そこから天山の底を流れる地下水を暗渠を通して、水を引くという方法。井戸は最も深いもので67m、長さは普通3km、最も長いものは10km、トルファンには約1500本のカレーズが掘られ、縦横4000kmと言う。構造は簡単であるが、水量は安定しており、蒸発を防ぐことが出来る。吐魯番の人口約25万人はこのカレーズによる水の恩恵で、日常生活を送り、約3万haの耕地が緑に覆われ、白葡萄・ハミ瓜。長繊の綿花など実る美しい町。14時50分から15時半。

    
カレーズ

 

 さらに「交河故城」。交河故城はトルファンの市街から西へ約10km、トルファン盆地の西端にある。東西は最大が330m、南北約1600m、東西を2つの河に挟まれた台地上にあり、天然の要塞となっている。漢代の車師前王庭があった所であり、漢王朝の重要な屯田地として、また辺境防御の任務にあった。麹氏高昌国時代、中心は高昌故城に移ったが、交河故城は軍事的拠点として使用され続けた。 702年には最初の安西都護府がおかれ、唐の西域経営の中心となった。ウイグル王国時代も重要な都市であったが、元代末期、チンギス・ハンの遠征の途中に破壊され、廃城となった。南部は一般居民の居住区であり、北部には寺院や仏塔、最北部には墓葬が存在している。各遺構は唐代の都市建築の特色を残し、高昌故城に比べて残存状態が良好である。16時40分から17時50分。

    
交河故城

 

 途中で、ぶどう農家に寄る。カレーズの水を利用し、ぶどうや果物の栽培が盛んである。日本より細長い形のぶどうが多い。種類もたくさんあるようだ。カレーズの周りにはぶどうの乾燥小屋が見受けられる。ここで、2種類の乾しぶどうを500gづつ買った。40分ほど居た。

    
ぶどう農家と乾しぶどう

 

 その後、夕食となる。吐魯番(トルファン)料理となっているが、これもあまり変わりない。街中の食堂のようだ。今夜、夜行列車で飲もうと、店にあった「楼蘭ワイン」を1本買う。これがなかなかおいしかったのだが。19時から20時。トルファン駅から寝台列車に乗り込んだ。2段ベット4人部屋。暗くなってきたので、楼蘭ワインを開け、現地ガイドの趙さんも呼び、日中の政治談議となった。本音を言い合ってなかなか面白かった。中国の若者も話すと分かり合える処が多い。ワインもおいしかったし、有意義な時間を持てた。就寝。

    
吐魯番料理                 駅へ             寝台車内

 


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